自分が1つ年を重ねる、この季節になると思い出す。

食卓に並ぶ、鶏の唐揚げに、マカロニグラタン。
唐揚げは姉の、グラタンは私の好物。

食後のお楽しみにも心をおどらせたものだ。
生クリームと缶詰のフルーツで不器用に飾られた母手製のケーキ。
ロウソクの灯りに照らされた、父、母、姉の笑顔。
吹き消したロウソクから立ちのぼる匂い、缶詰のみかんやパイナップルの甘酸っぱさまで思い出とともによみがえる。

私の誕生日の記憶だけではない。
3歳上の姉の誕生日もクリスマスも同じメニューだったと思う。
姉に聞くと、同じように覚えているようだから、私の記憶違いではなさそうだ。

母の心尽くしのふるまいだったのだろう。

 

私が高校入学した頃、母の脚が悪くなり始めた。
父に連れられ、市内の複数の整形外科をまわったが、原因はわからなかった。
病院のいい評判を聞けば遠方でも出かけて行った。
整骨院やマッサージにも通った。
ふらつきが強くなってからは私や姉も付き添った。

努力の甲斐なく、母は日に日に歩くことが難しくなっていった。
おかしいのは脚だけではなく、体もグラグラと揺れるようになり、椅子に座っていてもテーブルに腕をのせて身体をあずけていないと、姿勢を保っていられないような状態だった。
母の身体に何が起こっているのか、誰にもわからなかった。

家族の前で弱音を吐いたことのなかった母から「迷惑かけてごめんね」ということばがたびたび聞かれるようになった。
ベッドに横たわる母の脚をさすってやると「ありがとう、楽になった」と母は骨張った冷たい手で、私の手を握った。

 

私が高校を卒業し、近所のスーパーで働き始め、3年程たったとき。
母は逝った。
肺炎だった。

 

姉がよく転ぶようになったのは38歳のときだった。
数えてみると母の脚が悪くなり始めたのと全く同じ年齢だった。

姉は整形外科から紹介された神経内科で「とある神経難病」と診断された。

そこで初めて私たちは、母も同じ病気だったのではないかと思い当たった。
医師には「詳細な検査をしてみないとわからないが、母からの遺伝の可能性は高い」と告げられた。

 

母の不安はどれほどだっただろう。
いくら調べても原因がわからない、この先どうなるとも知れない怖ろしさ。

 

でもね、お母さん。

お母さんのときと今もあんまり変わっていないの。
診断はされても、これから起こるだろうことは知らされても、できることは何もないのよ。
あれから数十年もたったのに。

姉の診断から3年後、38歳になった春、小さなつまずきから私の病気が始まった。

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