秘密

「‪ことばの練習を見るとね、よくなってきてるんだなあと思います。
でも実際、主人は私とはほとんどしゃべらないんですよ」
最近の田尻さんのことばの様子を問うと奥さんはそう答えた。

仏花を欠かさない立派な仏壇と床の間のある広々とした和室。
床の間には上方にむかって泳ぐ3匹の鯉が描かれた掛け軸がかけられている。

「自分から伝えようとするのはスーパーの広告を指さして、コレとやるくらいですかね」
これを買ってこいと?
「主人、甘いものに目がないので。お菓子や菓子パンなんかです」

「晩ご飯、何にする?なんて、聞いても無理ですね」
レストランのメニューみたいなものがあったら、選べそうですよね。
田尻さん、だんだん文字を声に出して読むのが上手くなってきたから、文字をつけておくといいかもしれませんね。

 

翌週、メニューに入れる料理を田尻さんと選んだ。

「田尻さん、料理名を言います。
『いる』か『いらない』か言ってくださいね」
田尻さんはうんとうなずいた。

「おさしみ」「いらん」
「カツ丼」「いるわ」
「親子丼」「うーん、いらんかな」
「ハンバーグ」「いる」
「タラのホイル焼き」「いらん」
「タラのホイル焼きですよ、奥さんからよく食べてるって聞きましたけど」
「いらん!」

田尻さんが選んだのは、ステーキ、ハンバーグ、牛丼、カツ丼など、肉メニューばかり。

その料理名を見た奥さんは「あなた、本当に肉が好きなのね」とあきれたように言った。

「主人は自分が好きなもののときは『いただきます』とうれしそうに食べ始めます。昨日のハンバーグもそうでした。魚だと黙ってフォークをとります。魚は骨も全部とって出してあげてるんですけどね」

田尻さんは奥さんから、「魚」ということばが出るたびに顔をしかめた。

「メニューは田尻さんが『これが食べたい』ときに使うものです。田尻さんがお好きなものでいいんですよ」
声をかけると田尻さんはホッとした表情を見せた。
奥さんは黙ってその様子を見ていた。

 

「お邪魔しました」と頭を下げ玄関を出ようとすると、奥さんがするりと一緒に抜け出てきた。

玄関先で奥さんは私のシャツの袖をつかみ、顔を耳元に寄せて、小声で言った。

「昨日のハンバーグには秘密があるんです」
「え?」
「実は肉はほんの少ししか入れてないんです。さばとかさんまとかの水煮あるでしょう、缶詰の。あれを混ぜてます。そうでもしないと、主人は青魚を全く食べてくれませんから。主人には内緒にして下さいね」
奥さんはいたずらっ子のような目をしていた。
「また、来週お願いしますね」
とにこやかに告げて、奥さんはまたするりと玄関に入っていった。

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