帰る

「だから、帰れないって、言っただろ?」

「いや、帰る」
車いすから立ち上がろうとする、父の肩を押さえつけて、座らせた。

「オヤジ、さっきから何回同じ話をしたら、わかるんだよ。オヤジは今のままでは帰れないの。リハビリしなきゃ、無理だろ?」

「なんで?」
父は初めて聞いたかのような顔で聞き返す。

「なんでって、ウチはマンションの3階だろ?エレベーターないの忘れたか?そのフラフラの足でどうやって階段を上がるんだよ」

「何を言ってるんだ。行けば何とかなるさ」

「全く、ボケちまったのか!」
思わず声をあらげると、「どうされました?」と看護師がベッドを囲うカーテンのすき間からのぞき込んだ。

「大きな声を出してすみません。父が家に帰るってきかないもんで」

「そうでしたか。浅見さん、そろそろ夕食の時間なので、食堂へ行きましょうか。みなさん、お相撲を見てますよ」

父は車いすで食堂に連れていかれた。

 

脳出血を起こした父は、リハビリ目的で入院している。
しゃべれるにはしゃべれるのだが、すぐに忘れてしまうのか、会話が堂々巡りになり、病気のせいだとわかっていてもいらついてしまう。

 

病室に先ほどの看護師が戻ってきた。
「お父さん、最近夕方になると、よく帰ると言い出されるんですよ」

「そうなんですね。いつもお世話をおかけします」

「いえいえ」看護師が笑顔で首をふった。

「これって、認知症ですか?」気になっていたことをたずねた。

「認知症とは違いますね。医師から説明があったと思いますが、高次脳機能障害の症状です」

「ええ、聞いた覚えはあります。脳の前の方に出血があるから、そういうのが出るだろうと」

「浅見さんの場合、思い立ったらすぐに動き出してしまう、自分の行動が制御できない傾向があるようですね」

「病気だってことも、リハビリが必要だってことも何回も話をしてるんですけど」

「その場では理解されても、いったん、何かのきっかけで家のことを思い出して、気になり始めると、行動を抑えきれなくなってしまうんでしょうね」

「どうしてそんなことになるんですかね?」

「そうですね。浅見さん、まだちょっとぼんやりされている部分もあって。脳出血になった記憶もないんですよね。身体の麻痺も軽くて、まだ危ないですけど、どうにか歩けるので、病院にいる理由がわからなくなってしまうんだと思いますよ」

「高次脳機能障害…ですか?治るんですか?」

「だんだん落ち着かれていく方が多いですが、すっかり元通りになるかは、まだ何とも言えないですね」

他の看護師が病室にやってきた。
「あれ?浅見さんは?」
「さっき食堂にお連れしましたけど」
「いないよ!」
「えっ!」

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