一度死んだら怖いことはない 障害を強みにポジティブに行け

森誠治さん1

2016年6月11日、ロームシアター京都のメインホール、森誠治(51)はその舞台に立っていた。

客席は2000、ほとんどが埋まっていた。
第17回日本言語聴覚学会を締めくくるステージ、小道具でもあるハットをかぶり、左手には杖。
森は失語症漫才コンビ「のんべ~ず」のツッコミとして登場した。
学会内で唯一、一般にも開放されていたステージは温かい拍手と笑いに包まれた。

失語症とは、大脳の損傷により、いったん獲得された言語知識が喪失した状態をいう。
簡単にいうと、頭の中のことばのしくみが故障している状態だ。

ただ「話せない」だけではない。
「聴いて理解する」「読んで理解する」「話す」「書く」の全ての側面に障害がみられる。そのため、話せないなら書けばいいという代償手段がとりにくい。
症状から認知症と誤解されやすいが、知的機能には問題が無い。

失語症は我々がことばの通じない外国にいる状況に置き換えるとイメージしやすい。

誰かに話しかけられる。
でも内容がわからない。
表情や視線、ジェスチャー等から相手の言いたいことを必死に推測しようとするだろう。
文字を見せられても理解できない。
自分でも何か話そうとするが、ことばが出てこない。
当然、文字を書くこともできない。

この状況が旅行中に限らない、常時なのだ。

失語症者が、いかに緊張を強いられているか、わかるだろう。

失語症者である森が漫才をする。
どんな想いで舞台に立っているのだろうか。

 

43歳で脳出血を発症

ことばの95%を失う

 

森は昭和40年大阪市に生まれた。
大工であった父親の背中を見て育った。
高校を卒業後、いったん建築会社に就職したが、3年で退職し、大工の道へ進む。
小学校入学前から、漠然と将来は大工になるものだと思っていたという。

26歳で結婚し、三男一女に恵まれた。
家族でドライブに行くのが趣味。
長男の小学校、中学校でPTA会長、町の青年団団長も務めた。

平成21年末、43歳のときだった。

仕事が休みで家にいて、急に胸が痛くなった。
三男に「お母さん呼んできて」と言ったところまでは覚えている。

気がついたら病院だった。
脳内出血と診断された。
PTA会長をしていた中学校の校長先生が、病室に謝罪に訪れたことをおぼろげに覚えているという。

病気の理由をたずねた。
「薬を飲んだのに、酒も飲んでいたから、ダメだった」。
森のことばは、声が小さく抑揚が乏しい、耳を寄せ聞き取った。

詳しく聞くと、発症の数年前から血圧が高く、内服治療を受けていた。
薬は1か月7000~8000円かかるのが負担で、薬を飲んだり飲まなかったりしていた。
発症前は病院にも定期的に行っていなかったらしい。
それでも、毎晩、晩酌を欠かさなかった。

 

発症直後の急性期病院でのことは、あまり覚えていない。
左脳出血は、右片麻痺と失語症を引き起こしていた。
右手を動かそうと試すが動かなかった。

「しばらくしたら、治るやろ。また仕事できるんやんな」と思っていた。

リハビリテーションを受けたが、とにかく言われたことをやっているだけ。
言語能力は発症前を100%とすると発症後は5%だったと振り返る。

1か月程して、長期にリハビリテーションを受けるため回復期病院へ転院。

当時のことばの状態を覚えているか聞いた。
「病院かわってから、高校のツレが来たんや。『お前なんかしゃべってみろ』と言われたけど、しゃべれんかった。そんときにあれ?となった。しゃべられへんのや。ショックだった」。

森はテーブルに置いた左手の指先でリズムをとるようにして、続けた。

「相手が何か話してんなとわかるけど、何いうてんのやろ。わからへん。え?というてん。(もう1回いってもらえると)2回目はちょっとわかんねん。いおうとすると頭でわかってるけどいえへんねん」。

自分の状況をどうとらえていたのか。

「回復期病院で、3か月位してから、右手はやっぱりあかんで。仕事に戻れへんかも、だんだんわかってきた」。
「入院中、早く戻らなあかんと思ってるときが一番しんどかった。治ると思ってがんばっていたけど、治らんとわかって、ちょっと楽になってん」と当時の正直な胸の内を明かした。

発症から約半年後、装具と杖があれば一人で歩けるようになった。
中度の失語症が残った。

退院、自宅へ戻る。
「仕事はせなあかん。けど左手でできる仕事なんかないわと思ってた」。

ことばの役割は外言語と内言語にわけることができる。
外言語は話しことば、内言語は頭の中で思考に使われることばだ。
言語知識を失うことは思考の手段を失うことでもある。
そのため失語症者は論理的に考えたり、アイデアを生み出したりすることが不得手だ。
この時の森に、仕事についての展望をこれ以上求めるのは酷な話だ。

 

新たな体とことばで動き始める

笑いで人を元気にしたい

 

退院時、介護サービスを調整するケアマネージャーに在宅でのリハビリテーションを勧められた。
そして、出会ったのが、碓井(うすい)だ。
碓井はアクティブ訪問看護ステーションの言語聴覚士。
脳卒中や難病等で起こる言語障害や嚥下障害のある方へのリハビリテーションを担う専門職である。

碓井は森と出会ったときの第一印象を「暗かった」と語る。

家族がいるリビングから離れ自室にぽつんと座る森を見て「このままじゃ家での立場が無いだろうな、なんとかせなあかん」と思ったという。

森誠治 碓井理知

平成24年⒓月頃 デイサービスで言語聴覚士の碓井と

碓井は考えた。
森の「片麻痺と失語症」を活かせる方法はないだろうか。

そこで思いついたのが「リハビリテーション実技モデル」。

リハビリテーション専門職養成校で必須の実習、その前段階で、森が評価や検査のモデル(被験者)となるアイデアだ。
実習前に患者に触れる・関わる機会を持てる学生、収入を得られる森、どちらにもメリットがある。

碓井の提案した実技モデルに森は「やってやろう」と即決。
養成校にも快諾された。

森は不自由な体やことばを人前に晒すことに抵抗はなかったのか。
「かくしてもしゃあないやん。退院してきたら、かくせる部分てあまりないやんか」。
この想いは淀みなく、口から自然にすべり出てきたようだった。

チラシを作り関西圏の養成校に売り込み、時には森自身も営業に出かけた。
二十回以上の実績を作った。
最近では、森は学生に触り方や説明の仕方等のアドバイスができるまでになっているという。

森誠治 リハビリテーションモデル

養成校でのリハビリテーション実技モデルの様子

 

森のもう1つの活動が漫才だ。
3年程前、碓井はふと思った。
「森さんが漫才をやったらおもろいやろな」。
お風呂で頭を洗っていたときだったという。

訪問でリハビリテーションを始めたとき「人を笑わせるようになったら卒業」と冗談半分でした森との約束が頭の片隅に残っていたのかもしれない。
失語症者が人を笑わせる、それは一番高いハードルだと思っていた。

碓井は森に漫才をやってみないかと提案する。

「おもろそうやな。相方が助けてくれるやろ。どうにかなる」。

森に迷いや不安はなかった。

碓井は森と入職1年目の言語聴覚士とコンビを組ませ、失語症のあるあるネタを中心に書いた。
「のんべ~ず」は相方がネタを振りボケたところで、森が一言ツッコむスタイルだ。
繰り返し練習しても、なかなかタイミングよくセリフが出ない森のために、大きくセリフを書き、舞台下で示したこともあった。
養成校の学園祭に始まり、失語症友の会や学生との対話会等で披露し、沖縄にも2度遠征、現在までに計7回、舞台に上がった。
森誠治 漫才

学園祭で初舞台。舞台下で碓井がで見守る。

前述のロームシアターでの漫才も碓井が主催者に売り込み、つかみ取った機会だった。

森は、漫才で人を笑わせたい、元気にしたいとの想いで、舞台に立つ。
漫才を見た他の失語症者が、「自分も何かに挑戦したい」といってくれたのがうれしかった。

森は漫才で緊張することはないという。
「自分はな、一度亡くなってんねん。また復活してみんなの前に出てきてるから、怖いことはないねん」と珍しく真剣な表情で語り、「相方の方がずっと緊張しているで」とニヤリとした。

碓井は森への支援について「今はつかず離れずで見守る段階に来ています。ただ失語症のため自分で新しいことを考え出すのが難しいので、この先も提案は必要だと思います。その加減が難しい。今後は身近な小さな楽しみを見つけてもらいたい」と話した。

碓井との出会いが、森が外の世界へ大きく踏み出していく契機となった。

森は碓井を「なくてはならない存在」であり、「必要なことをはっきり言ってくれる人」と表し、「怖いけどな」と声を抑えて笑った。

 

森に今の生活についてたずねた。

週4日半を就労支援カフェ(就労継続支援A型)で働き、調理補助、料理の盛り付け、給仕、掃除等を行う。
キャスターつきのワゴンで料理を運び、トレイごと左手だけで給仕する。

森誠治 就労支援カフェ

カフェでは「右手右足が動かへん。うまくしゃべられへん。誰かの助けを借りなあかん。それでやってみよう」と思いながら働く。
収入は、他の活動と合わせ、月に60000~70000円、半分を貯金している。
週2回、リハビリテーション目的でデイサービスに通い、たまに若い失語症友の会や青年団の飲み会に行く。

実は酒はやめていない。
漫才で行った沖縄で、夜、ホテルを抜け出し、コンビニにオリオンビールを買いに行った。若い失語症友の会の飲み会で、日本酒を飲みすぎ、転倒し、頭を打って出血する騒ぎも起こしている。

2か月程前、家で飲むビールを1日1本から、週に2本にした。
健康を気遣ってかと思いきや「痩せるかなと思って」と森は少し出張った腹をさすった。
血圧の薬は欠かさず飲んでいる。

発症後は5%だった言語能力は、今は80%まで戻ったと話す。

失語症者には電話が苦手な人が多い。
言語コミュニケーションが不十分な失語症者は、普段、相手の非言語の表出(表情、視線、仕草等)を理解の手掛かりにしている。
その表出が読み取れない電話は失語症者には大きな障壁だ。
だが、森は臆すことなく電話をかけられるようになった。
挑戦し慣れることで克服したのだ。
メールのやりとりが可能で、SNSも使いこなす。
実用的なコミュニケーション能力は大幅に拡大した。

森は近頃、「はよ寝ろ!」と子どもたちを怒ることができるようになった。
そんなとき子どもたちは素直にいうことを聞くのだそうだ。

 

無収入となった生活を経て

家族への想い、家族からの想い

 

森と家族の関係はどうなのだろう。
妻や子どもたちへの今の想いをたずねた。
森は待ってというように左の手のひらをこちらにむけ、しばらく考えた。

が、ことばが出てこない。
申し訳ない気持ちはありますかと問うと「そりゃあ、ある」とぽつり。
何に対して申し訳ないかの問いには、眉間にしわを寄せて考え込み、ついには「わからへん」。

そのため、こちらから文字で選択肢を示した。
病気になったこと、夫や父親の役割が果たせていないこと、経済的な負担。
これに森は「全部やな」と答え、特にどれかと確認すると「経済的負担」を指さした。

病気やけがで障害を負い、働けない状況が続くとき、金銭的な援助が受けられる制度、「障害年金」がある。
森は障害年金基準を上回る障害状態ではあるが、病前、自営で大工をしていたとき、国民年金保険料を納めていなかった。
そのため、障害年金が受給できず、完全な無収入となってしまった。
自営では当然、退職金も無い。

発症時、長男は中三、末っ子の三男にいたってはまだ3歳だった。
長男の出産を機に仕事をやめ、15年間専業主婦だった妻が、美容師に復帰し、家計を支えた。
持ち家があり、住宅ローンは無かった。

長男・次男ともに高校卒業後は進学。
現在、長男は実家を離れ就職、次男は奨学金を得て大学在学中だ。
森は家庭の経済状況を詳しく聞いていないが、厳しいことはわかっているという。

 

続いて森は疑問に思うことがあると話し始めた。
作業所の初めての給与を妻に渡そうとした、が、受け取ってもらえなかった。
これまで数回、渡そうとしたがやはり妻は受け取らない。
今までその理由を聞いたことはない。

「なんでやろうな」森がつぶやいた。
奥さんに聞いてみませんか、その提案に「おお!知りたい」と森は小さく何度もうなずいた。

相談し、妻に手紙を書いた。
それまで森が妻の気持ちを推し量るも、わからへんと答えた疑問も併せて聞いてみることにした。

1週間後、約束の場所に、森は手紙の返事を手に現れた。

「俺、これ読んでええんやんな」と一言確認し、複雑な表情で読んだ。
手紙で妻が給与を受け取らなかった理由が判明する。

「不自由な体で、時間をかけて稼いだものなので。もらったら生活費であっという間になくなってしまいます。こつこつと預金をしてもらっているほうがいいのかなと思います」と書かれていた。
森は少し考え「聞けてよかった。でもせめて最初のは受けとって欲しかったな」としみじみといった。

森の発症から今までで最も大変だったことは何かの質問に「いろいろな相談ができなくなった事」と妻は書いていた。
これに森は驚き「絶対、お金やろうなと思っていたのにな。俺はお金さえ持って帰れば、あとはええんやと思っていた。でも話し相手がいるといないとでは全然違うのかな」と興奮気味に語った。

森の場合は発症年齢が若く、ちょうど子育て時期だったことが、特に相談相手を必要とした理由でもあるだろう。

家族が失語症者になることは、人生の相談相手を失うことでもあるのだ。

また、お金を稼ぐことが自分の役割と考える夫、夫に話し相手や精神的な支えを求める妻。
この齟齬は多くの夫婦にも当てはまるのではないだろうか。

森は妻の様子が最近少しずつ変わってきていると感じる。
以前なら、一人で決めていたことを自分にも相談してくれるようになった。

妻は「病気になる前はよく相談して決めていたので、病後は困りました。しばらくはわからんとの返事が多かったので(中略)最近、家のことで聞いてみたら、いろいろ教えてくれ困ったことが解決するので、今は全部ではないですが、聞いています」。

森のことばが出やすくなったことで、家庭内での立場も少しずつ変化してきたようである。

妻の手紙はこう締めくくられていた。
「今は余裕はあまりない中でもそれなりに生活していけています。誠治君も体に気を付けて無理をせず今の状態を維持して生活していってもらいたいと思います」。

 

森に今後についてたずねた。
「年金がもらえる人はある程度収入があるから、仕事はせんでもいい。俺はないから、70歳、80歳でもせなあかん」。

病後、運転ができずドライブに行けなくなった。
子どもたちと外出したことは数えるほどしかないという。

「自分のことで精いっぱいやったしな。嫁ともやけど、もっと子どもと話したい。一番下の子なら一緒に出かけてくれるかな。進路相談?それは嫁に任せる。」と照れくさそうに話し、「いつかバリバラ(Eテレの番組)に出たいな」と夢を語った。

病気になって後悔はないのか。
「病気して大工とは違うことができて嬉しかってん。今は大工していたときよりも生き生きしてると思う。後悔はない」と森は言い切った。

家族の支えがあり、進むべき道を提案してくれる支援者の存在もある。
環境は恵まれているといえるだろう。

しかし、障害さえ強みに変えてしまう、森のどこまでも楽観的な考え方が、生き抜くための命運を引き寄せているのではないか。そう感じさせる究極のポジティブさであった。(敬称略)

インタビュー・文 水野江美

 

森氏には、3回計6時間にわたり、インタビューに答えていただいた。
失語症者の特質で「どう思いますか」「どんな風にですか」等の質問に答えることが難しい場面が多かった。そのため、必要に応じ、極力、押しつけや誘導にならないように文字で選択肢を示したり、はい・いいえで答えられる質問に切り替えたり、配慮をしたことを記しておく。

 

※このインタビューは2017年5月、宣伝会議の第25期 編集・ライター養成講座、卒業制作において、優秀賞をいただきました。

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