代償

ねらうは菊枝さんの左の鼻の穴。
菊枝さんからは、痰のからんだうがいのような音が絶え間なく聞こえてきている。

「菊枝さん、痰をとりますよ。
ちょっと苦しいですけど、ごめんなさいね」

使い捨ての手袋をした左右の手で吸引チューブを持つ。
左手の親指でチューブの根元を押し曲げ、右手で鼻からチューブをゆっくりと入れていく。
鼻の奥の行きどまりの手前でチューブの方向を下向きに変える。

菊枝さんは嫌そうに首を振り、身体をよじった。
口元に届きそうな菊枝さんの手を、もう一組の手がぎゅっと押さえた。

のどの奥までチューブを入れ、チューブを曲げていた左手の親指を離す。
ゴゴゴゴという音がして、痰が吸引されてくる振動が伝わる。
チューブを右手の指でくるくるとねじるように回す。

左手でチューブを押し曲げて、吸引を止める。

「菊枝さん、咳できますか?」
菊枝さんは小さく何度も首を振る。
こちらににらみつける様な視線を送ってくる。

「ゴホンと咳です。ウウン」
咳払いをしてみせる。
菊枝さんは言われたことに従うことが難しい。

「ごめんなさい。もう一回」
チューブの先でのどを刺激すると、ようやっと咳が出た。
咳とともに薄黄色い粘稠の痰の塊がゴボッと引けてくる。

吸引しているあいだ、菊枝さんは呼吸ができない。
吸引に合わせて自分も呼吸を止めた。

再度チューブを押し曲げて、菊枝さんの呼吸が落ち着くのを待つ。

「最後、もう一回です」
全身を揺らすような咳が続き、次々と湧き上がるように引けてくる痰。

吸引瓶の中には、数えきれない薄黄色い塊が浮かんだ。

「はい、菊枝さん、終わりです。
  がんばりましたね、おつかれさまでした」

ゴロゴロした音はなくなっている。
菊枝さんは、ぐったりとした様子で目を閉じていた。
菊枝さんの目元ににじんだ涙をティッシュで押さえる。

「本当に苦しそうで、見ていられないですね」
菊枝さんの手を押さえていた、息子の忠司さんの目にも光るものがあった。

「食べる前に吸引をしないと食べながらむせて、もっと苦しい思いをします。
そばで見ていてお辛いと思いますが」

「食べることは楽しみでも、この吸引の苦しみがついてくる。
これをしても母が本当に食べたいかどうかってことですね」
忠司さんは指先で自分の目元を拭い、じっと菊枝さんの顔を見つめた。

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