分岐点

君江のぼんやりと宙を見つめる目は、おそらく何の像も結んではいない。
大きな物音にはビクリと身体を動かすことがある。
耳は聞こえているかもしれないと信じたくなるのは身内のひいきめだろうか。


「お父さん、代わるから。ちょっと休んだら?」
舞子が大きくなり始めたお腹に手をやり言う。
娘の舞子は結婚し隣町に住んでいるが、君江の介護のためにたびたび実家を訪れている。
「大丈夫だ。舞子こそ、座って休んでなさい」
手を止めずに、舞子に返す。

前かがみの姿勢のまま腰をこぶしで叩き、台所のテーブルについた。
舞子がお茶を淹れてくれている。

舞子が君江の部屋とを隔てるガラス戸をそっと閉めて、むかいに座った。

「お父さん、話があるんだけど」
舞子が思いつめた様子で言う。

「今度こそ、お母さんを施設に入れることを本気で考えない?」
「どうして?」
「子どもが生まれたら私も今までのようにはここへ来られない。
お父さん1人では無理よ」
「舞子は心配しなくても、お母さんの面倒はお父さんがみるから」
「仕事しながらお母さんの介護。
この15年、朝までぐっすり眠ったことなんかなかったでしょ?
腰だって痛い。
とっくに限界は超えてるんじゃないの?」
「15年がんばれたんだ。
これからだって、どうにかなるさ」
「それじゃダメなんだって。
私も結婚していろいろわかったんだよ」
湯のみをつかむ、舞子の両手が筋張り、力が入っているのが見えた。

「向こうのご両親に何か言われたのか?」
「ううん。
そういうことじゃなくて。
結婚して他の家族を知ったら、今まで当たり前だと思っていたことがそうじゃなかった。
私が就職したときも、結婚したときも施設の話したよね?」

暗然たる静けさに、冷蔵庫のモーター音が強まったように感じた。

「でもお父さんの責任だから」
「またそれを言う!
何回も言うけど、お母さんがこうなったのは、お父さんの責任じゃない」



君江が病に倒れ、医師から手術の決定権をゆだねられたとき、手術すると決めたのは自分だった。

母親を失うかもしれない、中学生だった舞子には、恐怖しかなかっただろう。
自分一人で考え、自分一人で決めたことだ。

「手術をしてもこのまま意識は戻らないかもしれません」
信じたくなかった医師の言葉がくっきりとよみがえる。

「お母さんも大事だけど、私はお父さんも大事なの。
どうしてわかってくれないの?」

対峙した舞子の目がみるみるうちに、透明な水滴で満たされた。

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