歩速

車いす

「では、今日はここまでにしましょうか。おつかれさまでした」
階下の言語室に連れてきていた、椿田さんの車椅子を押しながら、病室へ戻る。

今日は新患が出ているから、まだまだ立て込んでいるんだよなあ。
 きびしいなあ、急がないと。

廊下を曲がるとき、車椅子のタイヤと床がこすれて、キュッと高い音を立てた。

エレベーターのボタンを連打して、待つ。
表示は4階で止まっている。

どうしたんだろう。
こんなときに限って、なかなか降りてこない。

脇に挟んでいた予定表を開いて、これからの予定に思いを巡らせる。

南病棟の田中さんに、東病棟の山口さん。
あとは、新規の嚥下評価の方もいる。
夕方は小児の外来の予約があるから、それまでにあと3人か。

やっと来た。

車いすをバックさせてエレベーターに乗り込む。

新患の主治医は、ああ、渡会先生ね、評価の前に1回連絡しといた方がいいよな。
しまった、嚥下評価用のゼリーの在庫確認を忘れたわ。

無言でエレベーターを降り、大股で廊下を進む。

まずは、東病棟の山口さんからだな。
山口さん、痰が減っていればいいけど。

「道倉さん、道倉さんて」車いすの椿田さんの声に思考を遮られた。
椿田さんが車椅子の上で体を後ろにねじっている。

「はい。何です?」
「タオルをさっきの部屋に忘れてきたみたい。どうしよう?」
椿田さんの左の顔面には軽い麻痺があり、よだれを気にして、いつもタオルを持ち歩いている。

「タオルですか、ああ、今はちょっと時間が、えっと、後で病室に届けますよ」
「ごめん。うっかりして」

椿田さんは不安そうな顔で、後ろを見上げて言った。
「道倉さん、大丈夫?いつもと違うね」
「何がですか?」
「道倉さん、いつもはあそこでスピードゆるめてくれるでしょ?
あの建物の継ぎ目のとこ、少し段差があるんだよね」

椿田さんは進行方向に向き直り、後ろを指さして言った。

「ああ、はい」
「今日はそのまま突っ込んで、ガタンと揺れた」
「そうでしたか、すみません」

「忙しいんだろうなあと思って」

血液が一気に下がるかのように、頭の中が急速に冷えていく。
いからせた肩の力を抜き、歩みをゆるめた。

「今、言われて気づきました。すみません」
「いや、謝らなくていいよ。ちょっと心配になっただけ」
「いえいえ、教えてくださって、よかったです」

「忙しいときほど落ち着いてだよ。
ほら、俺らの仕事も同じだからさあ。
俺みたいな大工のおっちゃんに言われたくないかもしれないけどね」

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