プライド

「めっちゃ怒ってるんですよ」

武藤さん宅の玄関を入ると、挨拶もそこそこに武藤さんの妻、貴子さんに耳打ちされた。

朝、着替えようとした武藤さんがパンツを穿いていなかったので、理由を聞くと急に怒り出したのだという。

「別に責めたわけじゃないんですけど」

貴子さんは気まずそうにつぶやいた。

 

武藤さんには脳梗塞の後遺症で重度の感覚性失語症がある。

話すが伝わらない。

話すことばが、ほとんど意味がくみ取れないことばとなってしまうからだ。

「まあまあ まあでまって もうもう なんでや」武藤さんは声を荒げた。

何を言おうとしているのか、全くわからない。

とにかく怒っていることは確かである。

 

いつもの武藤さんは丁寧になでつけられた白髪と昭和の文豪のような丸眼鏡。

定年まで高校の歴史の先生として教壇に立たれていたというのもうなずける。

今朝は珍しく、髪は寝乱れたまま、パジャマ姿だった。

 

「一回、落ち着きましょう」

武藤さんの足元に腰をおろし、視線を合わせ、声を抑えて言った。

「どうしたんですか」

武藤さんは、左手で指をさした。

キッチンか、浴室か、トイレの方向のようである。

 

「行ってみますか」

杖を渡すと、武藤さんは腰かけていた介護用ベッドから立ち上がり、歩き始めた。

キッチン、トイレを通り過ぎ、武藤さんの足は浴室に向かった。

浴室の入り口から浴槽の方を指して、「あれ、まあまあ、そうで、そうそう」

「何、シャワー?」

後ろをついて来ていた貴子さんがたずねる。

武藤さんの発話は聞き取れないが、否定しているのは間違いない。

「誰かいたんですか」たずねると「そうそう」と武藤さんのことばに抑揚がつき、張りつめていた表情が少し緩んだように見えた。

「そう言えば、朝方、孫がシャワーを浴びてました」貴子さんが言う。

「お風呂を使いたかったけど、使えなかったということですかね」

 

「パンツはどうしたの」

貴子さんがたずねると、武藤さんは、今度はトイレを指さした。

「ないわよ。お父さん」トイレをのぞき込んだ貴子さんが言い募る。

武藤さんは簡単なことばでも理解が難しい場合がある。

武藤さんに向き直り、腰の左右に両手をあてて、脱ぐジェスチャーを加え、ゆっくりたずねた。

「脱いだ、パンツは?」

すると、武藤さんの左手は洗面室の洗濯かごを指した。

「これ?」

貴子さんが洗濯物の山に押し込まれたパンツを引き抜く。

「そうや」

武藤さんは私たちから目を逸らし、ぽつりと言った。

 

「お父さん、ごめんね」

貴子さんの声を背に武藤さんは静かに廊下を歩き始めていた。

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